
私は現在802衛生保健室に勤務している俞祉倫です。父も職業軍人だったため、民国65年に中学を卒業した後、中正予校に入学しました。当時の中正予校は、他の普通高校と違い、学業以外に厳格な軍事管理による生活があり、基本訓練や正歩などの活動が多くありました。予校卒業後、民国69年に陸軍士官学校へ直進し、官科は歩兵で土木系を学んだので土木工事についてある程度理解しています。民国73年に士官学校を卒業し、直接中尉として部隊に配属されました。

私が配属された部隊は花東にあり、台東太平営区に配属されました。その後、花蓮の玉里、七星潭、三棧などに転勤し、民国73年から76年まで花東で勤務しました。76年8月に馬祖西莒へ転任し、連長を務めました。当時前線の官兵は砦や坑道に駐屯しており、夏になると砦や坑道の床に2〜3センチの水がたまり、非常に湿気が多く人間の生活に適さない状況でした。ちょうどその時、外島の兄弟たちにより良い生活施設を提供する政策があり、坑道の横にトイレ、倉庫、兵舎などの建物を建設しました。私は土木工学のバックグラウンドがあったので、設計図の確認から測量、基礎掘削、鉄筋結束、型枠組み、コンクリート打設まで問題なく行うことができました。当時建てた建物は、対岸からの砲弾に備えて兵舎の屋根を1.2メートルの厚さ、壁の幅を80センチにしました。学校では理論だけを学んでいましたが、馬祖で実務経験を得ました。
馬祖で丸2年間勤務し、民国78年8月に台南官田203師へ転任し、師部連の連長を務めました。その後、営戦官となり歩兵学校の正規班で半年間訓練を受け、正規班から戻って師部で参一科の動員官として経験を積みました。民国80年に桃園龍潭の陸軍後勤司令部(当時は陸軍本部と同じ大漢営区にあり)へ転属し、人事官として歩兵、砲兵、装甲戦闘官科以外の官科の人事を担当しました。82年8月に802の後勤官が欠員となり、選考に応募しました。
802に配属され、後勤官、行政官、人事官を務めました。当時、行政課にはこの3つの少校職がありました。802病院は民国66年に建設された病院ですが、私が802に来た時には必要なスペースや設計基準が変わっていました。以前の軍医療施設は軍人と軍属の診療のみを担当し、一般市民は建国路の診療区で受診していました。さらに民国86年に全国健康保険が導入され、病院は軍民診療の統合を計画したため、スペースが不足していました。そのため、孟祥越院長の在任中に、既存建物の未使用エリアを活用し、空いた中庭に診察室を増築して診療スペースを拡大しました。
孟院長は非常に親しみやすく、職員を気遣う上司で、先見の明もありました。ある会議で、ある科の薬剤費が高すぎることが指摘され、孟院長が理由を尋ねると、科長は「そこに数名の軍人がいるから、今後は軍人に高価な薬を処方しないでほしい」と答えました。孟院長はその場で激しく叱責し、「軍人をケアしなければ、我々の病院の存在意義は何なのか? 国があなたを防衛医科大学に入学させたのは何のためか?」と述べ、非常に胆力があり軍人を大切にする院長でした。
現在の病院の2階にある内科ICU病棟は、もともと透析センターを建設する計画でしたが、院長交代の時期に孟院長が評価し、当時のICU病棟を内科と外科のICUに分割することを決定しました。その結果、工事の途中だった透析センターは内科ICU病棟に変更されました。
民国92年、服役の終盤に差し掛かり、衛生保健室での継続勤務の機会がありましたので、退役後に年次休暇を取得して再び802に戻り勤務しました。現在までで、802での勤務はほぼ32年に及び、病院の長年の支援に感謝しています。


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